【第001報】「はじめに」
なぜ私が、このライブラリを始めようと思ったかというと、それはやはり「AI」の登場である。
世の中、親方日の丸で始まった「働き方改革」、あるいは「人出不足」のせいか、とかく事故が増えた(あきらかにケアレスミスという意味で)と、新聞・TVを見るにつけ思うからである。
思うに、いくら「AI」が進化して人間の仕事を熟すとしても、彼らが「現場」に出て働くことは、まずない。例え製造現場に優秀なロボットを並べても、必ず「Trouble」は起こる。それに対処するロボットも作れば良い、といっても限度がある。最後は、生身の人間が臨場せねばならないだろう。
その時、その「Trouble」を時間・費用・結果的に巧く対処できるか否かは、その人間の力量次第であり、経験に基づく知見が要る。例え、それらをビデオに撮って、AIに覚えさせたとしても、常に機器は進化を続け、その結果現場は変遷していく。また地政学的にも、必ず千差万別が現実である。
そこで私の経験に基づき、「普遍工学」と銘打って、「知見ライブラリ」を始めるものである。 (注:分野を越えた“ものづくりの原理”を見つめ直す思考法、それが私の言う『普遍工学』である。)
これは私事ながら、学業に倦んだ高校時代、想いつくまま学園祭で「竹の船」を作って以来、気がつけば半世紀以上「船がらみ」で飯を喰ってきた私が、最後に手掛ける「もの造り」である。それは同じ仕事仲間の知見を集め、それを世の中に提供し、ついては次世代へ引き継ぐ「もの」である。
船は、荷主と船主と銀行がいて、造船所とメーカーが造り、第三者の検査を受けて市場へ送り出す。
船が運ぶ「もの」は、社会に必要なありとあらゆるものであり、また人間そのもの。船には目的があって、それを大勢の創意工夫を集めて造り、大勢の力を集結して安全・安心に運行すべきものである。
この「知見ライブラリ」が、すべからく「船を造る知見」をして、少しでも社会の役に立つことを熱望する。そのために、ひとりでも多くのロートルの知見を集め、それを集約していきたいと考える。願わくは、この試みがこれから引退する諸君の励みとなり、次世代の若者の参考になれば幸いである。
2025年5月吉日
AMCO代表 小林 正典
【第002報】「福笑いで描く図面」
「船を造る」というのは、あまり耳馴染みのある話ではない。ただ「ものをつくる」といえば、それは一般的であり分かり易い。故に、「ものづくり」の参考となればと思い、以下に知見を述べていく。
船は運ぶ荷や航路によって「船種」が違う。だがそれは筋が違うので、ここは「造る」に集中する。
船を造る工程は、おおまかにいって「設計」・「建造」・「進水」・「艤装」・「試運転」と続き、その全般に置ける「検査」に合格して、初めて「引き渡し」となる。ただこれも、いわゆる「ものづくり」の過程としては、あらゆるものに共通した工程であり、船の場合は、それが大がかりな点だけ他とは違う。
私が初めて設計したのは、コンテナ船であった。もちろん船の場合は建築と違って、ひとりで設計することはない。設計も「計画・基本・艤装・船殻・配管・電装」など、多岐に渡る。
思い出深いのは「カリブ海向け」のコンテナ船である。契約早々米国は New York から、高名な設計会社の若手技師が造船所に赴任した。さっそく建造仕様書に基づいた「承認図」を出すと、監督室に呼ばれた。そこで監督に言われたのは、「この図面では小さいので書き直せ」だった。
出した図面は Galley(=賄室)配置図。カリブ海向けの船で、Range・Heater・Ovenなど、乗組員三十数名の船だけに、けっこう広い部屋だが、機器が所狭しと並んでいた。それをA3の紙に”1/100”のスケール(2mのTableが図面上20mm)だった。これを監督は「”1/10”で描け」という。つまり2mのTableであれば、図面上で200mm(20cm)となり、A0の紙が必要だった。
私は抵抗したが、監督の言うことは絶対。それに追加で、部屋全体の図面とは別に「各機器の切り絵を用意しろ」と言う。数日後、それを持っていくと大きなテーブルに広げて、要は”福笑い”である。目隠しはしないものの、料理人の動線に従って、最も効果的な機器の配置を探り出したのである。
この経験は、その後長く私のキャリアーを支えてくれた。それは、設計する者は機器の用途を覚え、それを使う人の使い勝手を考え、現場に沿った図面を描かねばならない、ということである。その心構えは、大学で教わった?かも知れないが、現場で見る彼の手法は、まだ20代前半であった私の脳みそを大きく揺らした。以来私は、なにごとも”現場重視”を旨とした。「三つ子の魂、百までも」ではないが、今もあの技師に感謝している。
正にこの様な経験を、次世代の設計者に伝えていきたい。
(了)/文・小林正典
私の財布の中の50DKK
いつからか、私の財布の中には、デンマークの50DKKがある。
もう何代目になるかわからない財布だが、
それだけは、いまも変わらず残っている。
三十代の頃から、幾度も訪ねたデンマークの Copenhagen。
いまも目に浮かぶような町並みと、幾多の光景がある。
あれはもう二十数年前、 ちょうど、いまと同じ季節だった。
彼は競合先の会社の社長で、 最初は強力な Competitor だった。
だが数年後、いつしか私は、彼のことを
「My Father in Denmark」
と呼ぶようになっていた。
ある日、デンマークを訪ねた際、 彼から食事に招かれた。
店はチボリの近く。
確か、冬の名物料理で知られる、有名な店だった。
だが乾杯するなり、
「時間がない。早く食べよう」
と彼は言った。
味わう暇もないまま、 広場へ行って観たのは、英国の西部劇だった。
観客の笑いにつられて笑った、あの時の空気。
いまも、なぜか鮮明に覚えている。
その後、彼は長く病を患い、
そして今月、静かに天に召された。
あらためて50DKKを見る。
彼の笑顔を思い出すと、なぜか心が休まる。
決して、お金では買えないものがある。
いつかまた会える……そう想いながら。
Merry Christmas
(了)/ 文・小林正典
2025-11-20